高野巡礼
外出も憚る昨今、
母の七回忌で高野山の菩提寺に。
山間をかき分けて進む特急とケーブルカーとバスを乗り継いでのショートトリップは
なかなかの見応え。
古人は、これを徒歩でと思うと、改めて弘法大師の求心力と信仰心の力強さに感嘆する。
さて、お山の様子。
前回立ち寄った際には、観光バスで大量輸送されたおじいちゃん、おばあちゃんの一群に混ざって、ヨーロッパ系の精神世界大好きバックパッカーがたくさん居られ活況を示していた。早朝、薄暗い護摩堂で行う護摩炊きや本堂に響き渡る声明。神秘的で根源的なそれらに彼らがいたく感激するのもわかる気がする。
様々なものを統合、昇華し、洗練の極みとも言える真言密教を創設した弘法大師空海は、やはり日本史のスーパースターであり、稀代のプロデューサーである。今回は少しでもあやかる為、奥の院までしっかりお詣りしてきた。
流石に人は疎らであったが、高野山への注目度の変化とともにここ数年で寺院経営もかなり動きがあった様子。
特に宿坊経営では、如何に高野山という精神性を感じ取らせながら、ホスピタリティは敷居を低く満足度を高くという、「豪華絢爛で家庭的」みたいな二律背反的テーマが命題となっている様子。
その宿坊を構成する要素の一つ、料理。
高野山で修行僧として青春時代を過ごした故郷の住職を務める同級生(当時、Anan の高野山特集にでかでかと可愛い小坊主さんとして掲載された事がある)が言うには
「昔は、僕ら小坊主が天ぷら揚げたりしてたけど、今はちゃんとした料理人を雇い入れてるから、美味しくなってるよ」
とのことで、確かに一時のあれれれ?と言うことは無いものの、オールドスタイルの大箱旅館的な料理で、豪華でそれなりに美味しくはあるものの今一ピンと来ない。
食事前に千数百年積み上げられた、がちの読経・声明を聞いてるものだから、何というか世俗臭がうるさくて残念だ。
その昔、初めて食べた精進料理は、質素ではあるものの、滋味豊かで、思わず顔が綻ぶような味わいであった。
あれは美味しかったな。
貴重な歴史的資産を有し、海外からの注目も高いのだから、膳の数で差別化するのでなく、精進料理を核に据え、マクロビの要素や多種多様なもどき料理でのエンタメ性、地元和歌山の季節素材なども盛り込めば、更に人を呼び込めるのではないか、なんかやらせてくれないかなと俗な妄想で一杯になるサンクチュアリの午後でした。