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牡蠣道五十年。
愚直にまっすぐ、
牡蠣と人に誠実に。

斉藤紲男さんに聞く

はじまり

 倉橋島海産の創立は1962年。代々漁業を営む家系だったが現社長、斉藤紲男さんの父の代に牡蠣養殖に転身。

「広島に牡蠣漁師はようけおるんじゃけど、わしとこが一番後発じゃったんじゃ」

と話す斉藤さん。漁場は先行漁師の既得権がある故、創業当初は必ずしも条件の良い漁場が確保できなかったと言う。

「ええもん作ることに真っ直ぐ。少々条件悪かっても、人が一手間なら二手間、人が二手間なら三手間、目をかけ手をかけたら、ええもんができるじゃろ」決して恵まれていたとは言えない創業時、そのことをバネに日々、生産技術に磨きをかけていった。

 時は、スーパーマーケットや生協の勃興など日本の流通に大きな変革が訪れた時代。若き斉藤青年はそこに物怖じせず飛び込む。

「スーパーやら生協やら、漁師仲間は誰も付き合おうとはせんかったけん。けど、これからの時代、消費者と真剣に向きおうていかんと先がない思うての」時として、大きな儲けがでる事もある浜の相場。当時まだまだ山っ気の多い漁師の中にあって齊藤さんは異質であったかもしれない。

「切った張ったじゃなしに、信用、信頼の上でないと、ええもんも出来んし長い付き合いもできんじゃろ」正に慧眼。程なくして縁を得た齊藤さんは、当時、ようやく社会に知られ始めた生協との付き合いをスタートさせる。

「スーパー以上に生協はようわからんでの。けどの、会うて話したら熱心で真っ直ぐ。ああ、こんなとこなら、こっちも真剣に付き合えると思うたんじゃ」

かくして、生協組合員を初めとする消費者の叱咤激励を受けながらの牡蠣づくりがスタートすることになった。

 

当たり前を愚直に

 

それから。

生協との付き合いは、かれこれ○○年以上。時として容赦の無い、率直な消費者の声は、倉橋島海産の牡蠣づくりを鍛え上げることとなった。

「当たり前が一番難しい」斉藤さんは話す。「『おいしく育てた牡蠣を安全で新鮮なまま殻やらの異物混入のない状態でお届けする』、これは当たり前の事じゃろ?けど、牡蠣は一個々々、形も重さも大きさも全て違うんじゃ。その牡蠣相手に、たった一個の例外なく「当たり前」をやろうとすると、これは難しい。そんでも、製造する方は万に一つとしても買う方はそれが全てじゃろ。じゃから例外があったらいかんのじゃ」

加工工程に幾重にも設けられた点検、最新のX線検査装置、自動牡蠣むき機の導入・・。

「一つの例外もなく当たり前を行うため」の努力は立ち止まることなく、愚直に真っ直ぐ追求している。「消費者の期待を裏切らない」生協組合員との長年の付き合いの結晶かもしれない。 

 

立ち止まらない。
立ち止まれば、衰退が始まる。
だから今日も、一歩足を踏み出す。

牡蠣養殖を憂う

 

「皆が幸せになれるよう思うて色々やってきたけど、全部わしの自己満足じゃったんかのお」別れ際、斉藤さんはそんな意外な事を呟いた。

牡蠣生産を担う人の枯渇。牡蠣漁師年間通じて重労働。牡蠣を剥く打ち子も、技術とスピードを要求される仕事。日本人の新たななり手はほぼ無く、外国人労働者にその多くを頼らざる得ない状況にある。

そして、それ以上に斉藤さんが気にやむのは消費者の魚介離れ。牡蠣もその例外ではない。

「畜産と比べて、消費者が牡蠣に値ごろ感を感じんようになってきとるんじゃないかの」「個食の時代じゃけ、みんなで一つ鍋を突いてと言う時代でもなかろう」と消費の動向を分析。

「わしはもう終わるけえ、これからの世代はどうする?五十年先、百年先、広島の牡蠣は皆に喜んで食べてもらえとるんじゃろうか」と憂う。

しては無力ではないかと苦悩する。

牡蠣業界の最前線を駆け続けて半世紀。人材の枯渇と消費の減少、この大きな潮流を前に、齢七十を超えてなお、未来の広島牡蠣を憂い嘆き一人思考を巡らせ行動を重ねる。それは自社のみに及ばず、広島の牡蠣生産全体の苦悩を全て一人で背負うかの如く。

果たして。

未来のことは誰にもわからない。

しかし、この人が「真っ直ぐに懸命に」駆け続けてきたその後に、広島牡蠣の更なる品質向上の道筋がくっきり浮かび上がっているのは確かだ。

瀬戸内の海は豊かで穏やか。
じっくり、しっかり牡蠣を育む。
この恵みと営みが、永遠に続きますように。

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