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ミスター銀鮭、千葉昭博さん(右)と長男・拓実さん。三陸銀鮭を取り巻く状況は、決して楽観でき流ものではないが、「親子で頑張りゃなんとかなるべ」と明るく笑う。

 

銀鮭の生き字引、語る。

宮城三陸での銀鮭は、1970年代末よりその歴史を刻み始めた。その黎明期を知る養殖漁師の千葉昭博さん。銀鮭養殖の生き字引のような人だ。「最初頃はよ、誰もわかんねぇから、もう手探りでさ。みんな自分で鰯をミンチにしてバンバンやってたんだ」大きく念い鮭を作ればその分実入りが良くなる。とにかく、早く大きく、その一心で皆が競ってとにかく餌を与えたのだと述懐。「おかげでさ、銀鮭は鰯臭い味がするって評判が立っちまってよ」と当時を懐かしむ。ともあれ、それぞれの漁師が試行錯誤を繰り返しながらも、その出荷量は増加し、新規参入も増えていった銀鮭養殖。順風満帆に思えたその事業に悲劇が見舞った。

銀鮭相場、大暴落

それは平成2年。勢いを増す海外産の安い銀鮭の輸入拡大と国内養殖の生産過多・・・果たして銀鮭相場は大暴落。銀鮭は食欲旺盛で、その飼料代だけでも莫大な経費を必要とする。本来は4月から8月までの売り上げでそのコストを回収するのだが、劇的に下落した相場では売っても売っても穴埋めできない惨状を招いた。養殖漁師の中に資金が完全にショートするものが続出したという。「でっかい借金だけ残っちまってよ。次の年に育てる稚魚を買う金も育てる金もねえんだ。どうにもならずによ、借金だけ背負って辞めちまった漁師が何人もいんだよ」銀鮭養殖にとっては厳しく悲惨な時代だった。ギリギリのところで耐えた千葉さんではあったが、相場が好転する保証もなく、先の見通しが全く立たない時でもあった。このまま進むか否か、どちらを選んでも険しい道のり。千葉さんは選択を迫られていた。

消費者に喜ばれる銀鮭を

そんな時、いつも飼料を購入していた会社から声がかかった。

「千葉さん、私達と一緒にもっと消費者に喜んでもらえる銀鮭作りを行いませんか?」

その会社こそニチモウだった。

ニチモウが管理する稚魚養殖業者から仕入れる、抗生物質や薬剤は投与しない、指定した飼料を与える・・・それらいくつかの約束事項をきっちり守って養殖すれば相場に関わらず決まった価格でニチモウが全量買い取る。相場に頼っていては、品質の向上も養殖の継続も難しい。将来に渡って継続可能な銀鮭養殖を一緒に作り上げないか、という熱く真直ぐな誘いだった。

「消費者に喜ばれる銀鮭?」

それがどういうものか、その時の千葉さんにはピンとこなかったが、このまま、まんじりしていても事は動かない。

「消費者に喜ばれる銀鮭作り」

何度も何度もその言葉を反芻して見て何かそこに突破口があるような気がしてきた。そして何度目かのニチモウの誘いに参加を決意。「ニチモウ銀鮭会」の発足である。

半信半疑、そして確信へ

銀鮭づくりのノウハウはあった。俺が銀鮭を一番知っているという自負もあった。そんな千葉さんだから、時としてニチモウ社員と意見がぶつかることもあったという。それでも提携を続け5年も経った頃だろうか。「うまいんだぁ、俺の銀鮭。他のやつもいうんだぁ『オメェとこの銀鮭がうめぇ』って。誰に食わして見ても、うめぇって言うんだよ」

それは経験した事のない感動だったかも知れない。自分の作ったものが、「うまい!」「うまい!」と言ってもらえる事。その顔は笑顔で溢れ、それを見ているこちらまで、顔がとろけるように嬉しくなった。

(これがニチモウが言ってた「喜ばれる銀鮭作り」って事か?)
ならばこの道に間違いはない。互いに信じ合ってやっていこう。時を同じくして、それぞれの漁師達が自分達の銀鮭に自信と誇りを持ち、意気揚々と思えた頃・・・「あの日」が訪れる。

三陸銀鮭に降りかかる苦難を

いくつも乗り越えてきた千葉さん。

​ニチモウさん、仲間の漁師、みんなとの出会いがなけりゃ、一人じゃこれん道だったな」

失ったもの

「あれは・・・」一瞬、言葉に詰まりながら千葉さんの口から「あの日」の事が堰を切ったようにこぼれ出した。

「あんただ事は見た事ねえ。この里はよ、みんな浜に家があって、ほら、あそこら一帯が集落だったんだ。それが高い波に全部飲み込まれちまって・・」千葉さんご家族は、早々に丘の上に避難し、幸いにも命だけは助かったというあの日は、3月といえど寒い寒い日であった。迫り来る夜。電気は遮断され、あたり一面、漆黒の闇に包まれ、家族で身を寄せじっとしているしかなかった。「海の方からよぉ、聞こえてくんだぁ。『助けてくんろぉ』『助けてくんろぉ』って。流されちまってんだよ。せめて明かりがあればよぉ、助けに行けるんだども、どうにもなんねぇんだ・・・」そこまで一気に話すと絶句。助けを求める声は徐々に力を失っていった。永遠に続くかとも思えた長い夜がようやく白む頃、砂浜には瓦礫とともに昨夜、助けを求めた里人が骸となって打ち上げらていた。今は海猫の鳴き声と波音しか聞こえない、長閑なこの海で、ほんの数年前に起こった惨劇である。

残ったもの

あの日、海はこれまで積み上げたもの、大切にしていたもの、その多くをさらっていった。家も船も生簀も・・・何もかもがあの黒く恐ろしく惨たらしい海に飲み込まれ、もう返る事はなかった。「もう辞めるべ。もう出来ねぇ。あん時は心底思ったな」そんな千葉さんの凍えた気持ちを支えたのは、漁師とニチモウ社員の仲間達、家族だった。「あん時よぉ、ニチモウさんと仲間の手助けがなけりゃあ、自分一人じゃ何もできねぇ」そして「息子がよぉ、水産会社に勤めてたんだども、『父ちゃん、オラもやんべ』って。あの息子の一声がなけりゃ、とてもじゃねぇけど、もう続けられてなかったべなぁ」そう語る千葉さん。それを黙って聴きながら息子の拓実さんは黙々と銀鮭に餌をやり続ける。言葉はなくとも、そこには互いを労わりあう情愛がひしひしと感じられた。

あの日、海は全てを持っていく事はできなかった。

漁師、ニチモウ社員という仲間との「絆」、親子の「絆」・・・あの日、海が持っていけなかった数少ないものは、時を重ね、丁寧に育まれ、強く逞ましく、より輝いて三陸の海に再び笑顔を生み出している。

そして

今年も、銀鮭は三陸の海で元気に育っている。

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